お寺の鐘が・・・

A:ボクのマネするんやで。

B:うん、わかった。

 

という短い会話の直後からAの仕掛けは始まります。

 

A:お寺の鐘が

B:お寺の鐘が

 

A:ゴーン

B:ゴーン

 

A:ゴーン

B:ゴーン

 

・・・AはBに「しつこいな」と思わせるほどの回数で「ゴーン」を繰り返し言わせたとどのつまりに、

 

A:何回鳴った?

 

すると、Bは指を折りながら考え始めます。すかさずAが言ったのが、この台詞。

 

「アカンやん。ボクのマネして『何回 鳴った』って言わなアカンやん」

 

そこで、BはAにしてやられたことに初めて気づきます。

 

  これ、小学生のときに私がよくやられたものです。「あ~! やられた~!」と言いながらも、即座にめぼしい子を見つけては私も仕掛けたという・・・。

 

 

〈張良と黄石公のお話〉

 

  中国の故事に、こんな奇妙なお話があります。登場人物は張良と黄石公。張良は中国の漢王朝時代の将軍で、その武名は国中に響き渡っているほどでした。彼がまだ若い頃、黄石公という老人から「太公望秘伝の兵法の極意」を授けられたときのエピソードです。

 

 若き張良が浪人時代に武者修行の旅先で黄石公という、よぼよぼの老人に出会います。老人は、自分は太公望秘伝の兵法の奥義を究めたものであるが、キミは若いのになかなか修行に励んでいて、見所があるから奥義を伝授してあげようと言うのです。張良は飛び上がらんばかりに喜び、それからは「先生、先生」とかいがいしくお仕えするのですが、この先生、そ

う言っただけで何も教えてくれません。いつまで経っても教えてくれないので、さすがの張良もだんだんイライラしてきました。

 

 そんなある日、張良が街を歩いていると、向こうから石公先生が馬に乗ってやって来ます。そして、張良の前まで来ると、ぼとりと左足の沓(くつ)を落とします。そして「取って、履かせよ」と先生は命じます。張良は、内心ムッとしますが、そこは先生のお言いつけですから、黙って拾

い履かせました。

 

 別の日、また街を歩いていると、馬に乗った石公先生と再び出会います。すると先生、今度は両足の沓をぽとりぽとりと落とし、前回と同じように拾って履かせるように命じました。張良は以前にも増してムッとしましたが、これも兵法修行のためと言い聞かせ、甘んじて沓を拾い履かせました。その瞬間、張良は全てを察知して、太公望秘伝の兵法の奥義をことごとく会得して免許皆伝となりました。

 

 

〈なにかが変だ?〉

 

 さて、これを読んだあなたはどう思われましたか? 

 実は、張良も、このことを書いた筆者も、これを読んだ人も、次々とある間違いを犯していくのです。「間違いを犯す」というのはちょっときつい表現ですので、「誤解をする」と言い改めますね。

 

 まず張良です。老師は張良の目の前で、ただ沓を落としただけですね? 1回目なら偶然かも知れないけれど、2回目があって、しかも今度は両足ときたのですから、これは奥義伝授のための何かの意味合いがあるのだろうと勝手に考えたのは張良の方です。老師はそんなことは一言も言っていません。でも、張良も本当に奥義伝授のための何かの意味合いがあるのだろうと勝手に考えたのかどうかすら、ここには書かれていません。それに、張良がムッとしたこと自体も「誤解」のひとつなのです。

 

 というような内容を、自分の経験に照らし合わせた結果として、書いている筆者も「誤解」をしたのです。そして、これを読んでいる私もあなた

も「誤解」をしているのです。

 

 どんな「誤解」? なんなのだ、この話・・・?

 

 

〈これぞ悟りの極意?〉

 

はい。そういう風に考えること自体が間違い(誤解)なのです。これ、悟りの極意なのです。例えば、ガラスのコップをあなたが手から滑らせて床に落として割ってしまったとしましょう。その瞬間、あなたはどうしますか? いろんなことを考えませんか? はい。これが、そもそもの間違い(誤解)なのです。

 

 目の前で起きたことはそのものを見るのみであって、考えることではないのです。起きたその事実だけを見る。これが悟りの極意です。「ホンマか?」と考えた瞬間に、あなたの誤解が始まるのです。でも、ニンゲンは悲しい生き物で、どうしても目の前で起きたことに色んなことを考えて理由付けをしようとする生き物なのです。

 

 なんてことをエラソーにほざいている「悟りの極意」という私の言葉自体が、私の誤解そのものかも知れません・・・。

 

  という、お話しでした。おあとが、よろしいようで。