いつの間にか本を読むようになる環境

塾長は学生時代、本をほとんど読まなかった

実は、塾長である私は、学生時代には本の「ほ」の字も読まなかったのです。本なんか読まなくても生きていけるじゃないかと思っていたからです。父親(故人)は昭和ヒトケタ世代で、「漫画を読んだら(見たら)アホになる」と信じていたし、常日頃からそう言って、私にアニメのテレビ番組を見せてくれませんでした。そのくらい漫画がまだ市民権を得ていない時代に育った世代なので無理もないことでしたが、その父親に「お前、漫画でもエエから、読めよ。」といわせたツワモノが当時小学生だった私なのでした。

 

もっとも、本を読まねば仕事にならない職業を選んでしまったとは、なんたる皮肉ということになりますが、仕事がらみで仕方なく読みはじめたのが40歳代です。それからいつの間にか古代史に熱中しはじめたのをきっかけに、仕事がらみではなくて、本当に自分から読みたい本を探し始めたのです。

 

そして気づかされたことは、書籍は情報の宝庫であること、著者の頭脳に蓄積された膨大な情報をその一部分であるとはいえ読み手も共有できて、著者が体験したことを擬似的に体験できるということなど、本を読むことの素晴らしさでした。

 

ただ、本を読むという躾を幼いことから身に着けさせられたわけではないので、「積ん読・乱読・浮気読み」の三拍子で、1冊を読み終えるまでその本に集中できず、その書籍の中に出されている参考書籍が目に入ると、それを取り寄せては、元の書籍を放り出して読みかじり、またその書籍に書かれている参考書籍に手を伸ばすという始末ですが、不思議と混乱させずに、結局は全部読み終えてしまうのです。

 

でも、このような読み方は決して褒められたものではありませんから、お子さんには、やっぱり1冊の本をきっちりと読み終えて、それから新しい本に手を伸ばすという、上品な読み方をしてほしいと思います。(笑)

 

さて、そういう想いをこめて、そして、生徒さんからの要望にお応えする形をとっていたら、いつの間にか本が随分と増えました。

読書を無理強いしても、子どもさんは決して読まない

「明日までに漢字を覚えてきなさい」とか、「明日英単語のテストをするから覚えてきなさい」と言われても、ほとんどして行かなかったのです。「~しなさい」とか「~せよ」というパターンが嫌いだったからです。ですから、親にどんなに「本を読め」といわれても、自分がしたくないことをさせられるのがイヤだったので、かたくなに読もうとしませんでした。

 

イマドキの子どもさんを拝見していても、根本的には変わらないなと思わされます。楽しくないものは楽しくないし、嫌いなものは嫌いなのです。

 

でも、「ひょんなことから」という言葉があるように、どのお子さんにも、きっかけは等しく訪れるのです。それをひたすら待つのです。ただし、無策で待っていても仕方がないので、自然と本を読むように仕向けていくのです。そのいちばん良い方法は、「本でもよんでみようかな」という気持ちにさせる空気を作ることです。この空気は意外とたやすく出来ました。というのは、私がその空気を作ろうとしてもわざとらしくなって出来ないのですが、生徒さん自らがしてくれるたからです。

 

それで、大切なポイントですが、どこにあると思われますか? その答えは「本でも」というところです。「本を」ではなくて、「本でも」。「本を」と「本でも」では、大きく意味合いが違うのです。

 

「本でも」の「でも」には、「することがないから」「ヒマだから」という意識や感情が潜んでいます。何もすることがないし、まわりの子が本を読んでいるから、自分も「仕方がないから読んでみるか」という気持ですね。大人でなぞらえると、「ヒマだからテレビでも見るか」とか、「とりあえずビール」というような感じでしょうか。

 

スタート地点では何でも良いのです。理由なんてどうでも良いのです。だって、「ヒマだったから」も立派な理由ですからね。「ヒマだったから」だなんて、本を読む流儀としてはなっていないのではないか、なんていうオカタイことは申すなかれ。流儀などという精神論は、もっとちゃんと本を読みはじめてから久しくなったときで良いのです。

 

小学生のお子さんに対しては、お子さんが解いた課題を、必ず塾長である私が採点や点検をします。実は、このときがチャンスなのです。というのは、お子さんはその日のすることを全部しおわっているので、私が採点や点検をする時間は手持ちぶさたになるのです。それでも最初のうちは本に手を伸ばしません。私が採点と点検をしおえるまで計算用紙に絵を描く時間に充てるお子さんもいますし、何もすることなくただ待っているお子さんもいます。

 

それでも、「本でも読んだら?」とは一言も言いません。

 

ところが、そのうちに本を読み始めるのです。理由を尋ねると、「ヒマやったから」という王道的な答えが返ってきます。「それでエエんとちゃう?」と、しれっと答えておきます。子どもさんにとって大切なことは、自分が言ったことを大人から責められない(否定されない)ことです。「ヒマだから」と「そのときは本を読もうかな」とが結びついたとき、その子にとっては大発展なのですからね。

 

これを繰り返すうちに、その子はこのようになるのです。

 

「先生、本を読んでもいいですか?」

 

この一言を塾舎で発しはじめた子どもさんは、お家でも本を読み始めるということは、親御様の証言で実証されています。

好みもそれぞれ

お子さんからのリクエストが出始めたきっかけは、学校の図書室にないからというものでした。というのは、図書室にあるにはあるのですが、人気が集中しているせいでなかなか借りることが出来ないからで、それなら塾に置いて欲しいという要望が挙がったのです。

 

もちろん大賛成。これをきっかけにいろんな本に接して欲しいし、今はライトノベルでもいいけれど、ゆくゆくは歴史の書籍とか小説とか、あるいは世界的に見ても文学の最高峰といわれている『枕草子』『平家物語』『源氏物語』などの古文が読める人になってくれたらいいなと思っていますから。

 

今のところ最も人気があるのが、この写真のような人物伝(歴史漫画)です。時折「先生、お家でも読みたいから借りて帰ってもいい?」という声も挙がります。もちろんOKです。「でも、他にも読みたい人がいるから、あまり長い間はやめてね。」と声をかけます。実は、これも勉強なのです。借りたいという自己欲求を満足させながら、他にも読みたい人がいるのではという「小さな社会的思考」いわゆる「公共性」を自然と学ぶきっかけにもなりますし、借りている本なので取り扱いも丁寧にするという心がけも出来るようになります。

 

女の子さんに人気なのは、『銭天堂』『5秒後』や『5分後』シリーズ。男の子さんに人気なのは『ヒッグとドラゴン』などの冒険ものです(この『ヒッグとドラゴン』は生徒さんのお母様から勧めていただきました)。その他に、江古川乱歩シリーズに手を伸ばす生徒さんもいて、全巻を読破したツワモノも現れています。そのツワモノはシャーロックホームズのシリーズに手を伸ばすというように、読書のレベルがどんどんアップしていっています。

 

また最近では、めったに「~な本置いて欲しい」と言わないお子さんからも、「ホラーものを置いて欲しい」という要請を受けたりして、『怪談5分間の恐怖』シリーズが今後増えていきそうな気配です。

読書が担うコミュニケーション

一言で「読書」といっても色々あります。別に難しい小説や論説文を読むだけが読書ではありません。漫画でも良いのです。Lineメッセージを通じて、お母様からも「先生、この漫画、ストーリーがイイんですよ!」と勧めて下さる場合もあり、実際に読みはじめて、そのまま熱心なファンになったりもします。

 

子どもさんって、話題の漫画の話が大好きです。それと、子どもさんが「この漫画、すごくイイよ」と言う作品について、良いモノは良いということです。例えば、ストーリーが良いとか、漫画の絵自体がすごくて良いとか、中には感動するという声も聞きますが、子どもさんの評価は時として大人のそれよりもシビアです。お子さんの世界にはお子さんの世界で、良いモノは良いという厳然とした評価が確立されているのです。こういうことを知ることで、大人は子どもさんをリスペクトできますし、それを理解できる大人を子どもさんもリスペクトしてくれます。

 

このように様々な作品に触れ、本を読むことで、すてきなコミュニケーションが可能になることは大変良いことですね。